(使用写真:もののけ姫 – スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI)
こんにちは、ユリイカです。
今回は、スタジオジブリ作品『もののけ姫』(1997)について解説・考察します。
しかし、『もののけ姫』のストーリーはすでにご存じの方も多く、Wikipedia(もののけ姫 – Wikipedia)だけでも十分に【ストーリー】を補填することはできます。
そこで今回はストーリー解説と合わせて、民俗学視点での解説・考察に力を入れてお話します。
スタジオジブリ・宮崎駿監督最新作『君たちはどう生きるか』はこちらです。
【ストーリー】死の呪いを解くための旅
『もののけ姫』のメインストーリーは、少年=アシタカの冒険活劇です。
しかし、『天空の城ラピュタ』の少年=パズーとは少し描き方が異なります。
主人公・アシタカの抱える【葛藤】は、ヒロイン=サンや、ヴィラン=エボシ、その周辺に描かれる人々と共通の【葛藤】です。
この人間(キャラクター)の【葛藤】のせめぎ合いが、『もののけ姫』のストーリーの深みとなっています。
あらすじ
本作の【あらすじ】はこちらです。
(引用:もののけ姫 : 作品情報 – 映画.com (eiga.com))
登場人物|視点によって「構成」が変わる作品
『もののけ姫』※の主人公はアシタカです。
※宮崎駿監督が本来予定していたタイトルは『アシタカ聶記』。しかし、鈴木敏夫プロデューサーの判断で『もののけ姫』になった経緯があります。
主人公・アシタカ視点での【メインストーリー】は以下のようになります。
【二幕】呪いの原因が判明する
【三幕】アシタカの呪いが解ける
しかし、【視点】を別のキャラクターに変えると、【三幕】は以下のように変化します。
【一幕】シシ神の森の川向こうにタタラ場(城※)が造られる
↑サンが森に捨てられ、モロに拾われる。
【二幕】シシ神の森 vs タタラ場
↑成長したサンも争いに参戦。
↑深手を負った名護の神がタタリ神となって北上。アシタカの村を襲う。←アシタカの【第一幕】
【三幕】最終決戦→決着
↑サンは森で、エボシはタタラ場(村※)でそれぞれ生きる。
※タタラ場が「城」か「村」かの意味については後述します。
【一幕】シシ神殺しの命令を受けた“師匠連” の指示で動いている
↑命令を下したのは「天朝さま」=帝(天皇)
↑エボシに石火矢衆を与えたのも師匠連=唐笠連のトップ(と推測できる)
【二幕】エボシを利用して暗躍
↑ジコ坊にとって大事なのは、シシ神殺しの達成。エボシはそのための駒。
↑エボシ vs シシ神の森を引き起こす=サンとエボシの【第一・二幕】
【三幕】任務失敗
↑シシ神の首をアシタカとサンが返してしまう。
登場人物それぞれに【三幕】が想定されているところが、『もののけ姫』の盤石さ=不朽の名作としてあり続ける所以です。
時代背景|”まつろわぬ民” が迫害された時代
『もののけ姫』の作品舞台は、中世(室町時代の頃)と言われています。(参考:もののけ姫 – Wikipedia)
このセリフから、1300年代と推定できます。
※801年、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷へ遠征し勝利(参考:蝦夷 – Wikipedia)
日本に仏教が伝来したのは538年。
以来、朝廷(大和政権)は仏教を利用して国内統治を進めていきます。
しかし、これに従わなかったのが東北の蝦夷の民です。
なぜなら、彼らには彼らの神(日本土着の神=アニミズム)がいたためです。
民俗学では「まつろわぬ民」という言葉がたびたび登場します。
ひとことで言うと「朝敵=朝廷に従わない人々」を意味する朝廷視点の言葉(表現)です。
仏教の教えのもと、国を作ろうとした朝廷にとって、仏教的に許容できない物ごとは「敵」でした。
霊的存在(もののけ・神…)から、異人(文化の違う者=余所者・宗教者・難民・犯罪者…)、被差別民(病人・琵琶法師などの障がい者…)まで、当時の朝廷は敵を一方的に生み出しました。
この史実を『もののけ姫』に照らすと、以下のことが見えてきます。
【アシタカ】エミシ一族の末裔=蝦夷(まつろわぬ民)
【サン】山に捨てられた人間=山の民(異人)
【シシ神やモロ】山の神々=土着の神(≠仏教神)
【タタラ場の人々】難民(エボシも含めた女たち)、業病の者(当時、病は前世の悪業の報いによって起こるとされていた)
【地走り※】殺生(仏教的にはNG)をする狩人=山の民(異人)
※彼らについては後述します。
このように【登場人物】のほとんどが「まつろわぬ民」で構成されていることがわかります。
反対に、唯一「まつろわぬ民」でない人々が、ジコ坊をはじめとする唐傘連の者たちです。
唐傘とは「唐風の傘」のこと。
つまり、唐(中国)にゆかりのある人々です。
中国は仏教の国=当時の朝廷が目指した仏教で治まっている国です。
このため彼らは「天朝さま(帝・天皇)」からの任務=「シシ神殺し」を背負って登場します。
本来の意味での「征夷大将軍」とは
・蝦夷 (えぞ) 征伐のため臨時に編成された征討軍の総大将
・後世では,蝦夷征伐とは関係なく,兵権を握って天下の政務を執行する武人出身者にこの称号が与えられた。
・略して将軍ともいう。
(引用:征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp))
余談ですが、征夷大将軍に「武家出身者」が選ばれるようになったのには理由があります。
「兵権を握る」ということは、天皇(貴族たち)に代わって殺生を担うということです。
仏教が殺生を禁じているのもそうですが、そもそも日本には古来から「穢れ(死を忌む)」の考え方があります。
この「穢れ」の仕事を請け負ったのが武人出身者(=武家)です。
別の言い方をすると、武家は貴族から「穢れ」を押し付けられていたと捉えることができます。
(参考文献:徳間書店『井沢式「日本史入門」講座(4)「怨霊鎮魂の日本史」の巻』)
【第一幕】タタリ神の死の呪い【これよりネタバレ】
【第一幕】では、以下の出来事が描かれます。
①タタリ神の呪いを受けてエミシの村を旅立つ
②ジコ坊と出会い、シシ神の森を目指して更に西へ向かう
タタリ神の登場|アシタカの「破魔矢」
タタリ神の【登場シーン】では、「越境」が描かれます。
①石垣の向こうの木陰で、何かが動いている
②次の瞬間、どーんと石垣を突き破って飛び出してくる
③日陰から日向へ出たところ(ちょうど境目)で、タタリ神は束の間、名護の神の姿を見せる
人と神との「境界(線)」は、古代の人にとって大切なものでした。
(神社の鳥居や注連縄のほか、巨木や川なども境界の目印。また、猟師は山に入るときには山言葉を使った)
それが、人と自然(神)との付き合い方(=共存方法)だったからです。
その境界=村の石垣を突き破って来るという時点で、(エミシの村民にとって)タタリ神は恐るべき脅威です。
(ちなみにこの石垣は、大和に対する防衛線の意味合いも含んでいると思われます。蝦夷から見れば大和こそ「異人」です)
脅威を前に、竦み上がるヤックル。
そのとき、恐怖の呪縛から解き放つのは、櫓の上から放たれるアシタカの矢です。
アシタカは、ヒイさまに「アシタカヒコ」と呼ばれています。
この「ヒコ」は、古来において男性の名前に付けられる美称でした。それだけでも身分の高さがわかりますが、村の老爺も「一族の長となるべき若者」とアシタカを称します。
もともとアシタカは村で特別な存在だった。
そのことを裏付けるのが、この破魔矢のシーン※です。
※弓矢は悪いものを祓う代表的な日本の武器
タタリ神の襲来|蛇っぽい理由と、”神が祟る” 日本らしさ
村を守ることはできたものの、その代償としてアシタカは呪いを受けてしまう。
タタリ神は、全身を「蛇状の触手(引用:もののけ姫 – Wikipedia)」に覆われています。
なぜ「蛇」かというと、古来から神聖視されてきた生き物だからです。
古代の人にとっての憧れは「永遠の生」であり、一番の恐怖は「死」でした。
そんな彼らにとって、蛇の見せる脱皮は「永生と新生」の象徴でした。
このため、縄文土器に蛇のような模様(縄目状)を取り入れたり、蛇がトグロを巻いた姿を「山」になぞらえて山岳信仰をするようになります。
『古事記』や『日本書紀』などにも、「蛇」が神さま(もしくは遣い)として登場する神話が多く見られます。
(これらを踏まえた上で、宮崎監督は「日本の神さまらしいデザイン」としてタタリ神に「蛇」を盛り込んだのだと私は考えています)
また、古代の人にとって「日本の神」は、守りもすれば祟りもする “二面性をもつ存在” でした。
(ex.水神=いい時には恵みの雨、悪い時には家を押し流す雨をもたらす)
西洋の神(善のキリストと悪のサタンは別個の存在)とは異なるこの点が、日本の神(自然を崇めるアニミズム)の特徴です。
この日本の宗教観が下地にあるため、エボシ(人間)の行いを恨んだ名護の神や乙事主はタタリ神化し、
また、「シシ神は命を与えもすれば奪いもする」というモロのセリフの通り、シシ神はアシタカを救う一方、乙事主とモロの命を奪います。
【参考文献】
アシタカの旅立ち|「穢れ」の追放
呪いを受けたアシタカは、早々にエミシの村を旅立ちます。
これは一見、助言をくれているかのように見えますが、以下の点を見ていくと、実はそうではないことがわかります。
①即行で旅立つアシタカ
アシタカの旅立ちは呪いを受けたその日の晩です。
朝も待たずに出て行く(出て行かされる)のは、「呪われた人」だからに他なりません。
先述したように、日本には「穢れ」という文化があります。
穢れた人=「呪われた人」を村に置いておくことは、村人全員にとっての脅威となり得ます。
(そうやって迫害された人々が、エボシの保護のもとタタラ場に集まっている。=タタラ場の人々にアシタカが【感情移入】する最大の理由)
このため、アシタカは夜のうちから出立することになります。
※「なぜ夜か」についてはディダラボッチのところで後述します。
②アシタカの断髪
【大前提】として、「人が相手を仲間と認識する」には「同じ姿をしている」という【心理的ルール】があります。
エミシの村におけるそれは、結髪(アシタカの最初の髪型)です。
それを切り落とすという行為は、「この村の人間ではなくなる」という意味を持つ行為です。
また、「乱髪」は死後の風俗としても想定されている髪型です。
(伝統芸能の能でも、神は乱れた髪で演じられる)
「死者=神」と連想が繋がるのも、先述した「神は守りもすれば祟りもする」という古代日本人の考え方に基づいています。
③ヒイさま「掟に従い見送らぬ」
「穢れ」の中でも代表的なのは「死」です。
つまり、死の呪いを受けたアシタカは、もっとも「穢れた状態」にある存在と言えます。
「穢れ」を見送らない(=見ない)のも、村から追放する行為と同じ意味を持つ「祓い」の習俗です。
『古事記』で黄泉の国へ行ったイザナキ(≒『鶴の恩返し』の夫)は、「見てはいけない」という禁忌をイザナミ(≒『鶴の恩返し』の妻)に課されます。
なぜなら、神を「見る(=知る)」という行為は畏れ多い行為(=越境行為)だからです。
アシタカの見送りもこれと同じ「見る」行為にあたります。
(それがたとえタタリ神でも、神は神)
これが、村の巫女・ヒイさまがアシタカの見送りを禁じる理由です。
【参考文献】
アシタカ vs 侍|「鬼だ」というセリフの意味
エミシの村を出たアシタカは、里へ出るなり “侍の争い” に遭遇します。
このとき、アシタカの「呪われた力」が初めて【発現】されます。
(アシタカの矢は、侍の腕や首を飛ばすほど強い)
山の中へと逃げ込むアシタカですが、このとき侍のひとりが「鬼だ」と吐き捨てます。
これには、「アシタカが異常な力を見せつけたから」以外にも理由があります。
そもそも山から不意に現れたという時点で、(侍=当時の大和政権下の人々にとって)アシタカは「鬼」です。
「鬼」とは本来、“異境の者” を指す言葉であり、”異境” には山に暮らす先住民=蝦夷の民も含まれます。
そして、何よりこの時のアシタカは「蓑笠姿」です。
この「蓑笠姿」も、民俗学では重大な意味を持っています。
「蓑笠姿」の意味
「蓑笠姿」は、山の民の代表的な出で立ちです。
彼らは里の民にはない知恵の力で暮らしていたがために、(中世では特に都人に)恐れられていました。
だからこそ、「蓑笠姿」は神(=来訪神)の代表的な姿とされるようになります(なまはげ等)
□ 来訪神…異郷からやってきて人々の歓待を受け、また帰ってゆく神(来訪神(らいほうしん)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp))
以下に「蓑笠」についての民俗学的な見地を抜粋します。
・目に見えるものを見えないものにする呪具(隠れ養・隠れ笠)
・死は隠れることだから、死者は蓑笠を着る(死装束)
・しかし隠れるためだけでなく、あらわれるときにも笠をつける
・儀礼的な死と再生を示すしるし
民俗学者・折口信夫
・蓑笠をつけると、その人は素性のちがった性質を帯びる
・マレビトは蓑笠をかぶった異形神
・神とも妖怪とも鬼ともつかぬ、まぎらわしい存在
□ マレビト=時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語(引用:まれびと – Wikipedia)≒来訪神
↓まとめると、
【蓑笠の象徵的意味】
・「かくれる」と「あらわれる」の両義性をもつ
・死装束であり産衣→再生・新生への願望がこめられている。
・蓑笠は「かくれ」と「あらわれ」の境界の衣裳(境界を行き来するためのパスポート)
見慣れない赤獅子(ヤックル)に跨り、“特別な蓑笠姿” で山から現れ、異常に強い矢を放って、山へ消えていく。
「鬼だ」という侍の一言は、アシタカの異形が引き出した彼らの当然の恐れ(=畏れ)を表現しています。
(物語後半で登場する地走りも、蓑笠姿だったり仮面を付けている)
【参考文献】
【第二幕】呪いの原因 シシ神の森 vs タタラ場
【第二幕】では、以下の出来事が描かれます。
②シシ神の森を抜けてタタラ場到着
③呪いの原因が判明する
④タタラ場をサンが襲撃する
⑤シシ神に命を救われる(呪いは解けない)
⑥エボシの神殺し(シシ神の首が飛ぶ)
③から⑥にかけて描かれるアシタカの【葛藤】が『もののけ姫』の見どころです。
タタラ場 vs 山犬一族|境界線としての「川」が “濁流” な理由
雨の昼間。
①ジコ坊の助言でシシ神の森を目指すアシタカと、②タタラ場へ物資を運ぶエボシ一行が交互に描かれます。
このとき、アシタカとエボシは川を挟んで東西の山中にいます。
(川を越えた西側にタタラ場がある=つまりここでは「川」が両者の境界線)
アシタカの行く道(東側)は、緑豊かな森です。
一方、エボシの行く道(西側)は、焼き払ったような岩山です。
これは、10年以上にも渡る山犬との戦い(=石火矢の戦い)で、タタラ場周辺が荒廃してしまったことを見せる【比較描写】です。
・アシタカ「流れが強くて渡れない(向こう岸へ行くにはシシ神の森を抜けるしかない)」というセリフ
これらは雨のせいばかりでなく、エボシ達が山(生態系)を破壊してしまったことが原因です。
※そこに生える木が山を補強する。水を貯め、山崩れを防ぐ。
一方で、山犬が戦を仕掛けるほど応戦(石火矢)で山が焼かれる、という皮肉を読み取ることもできる描写になっています。
シシガミの森を抜けるアシタカ|シシ神の足跡に集まる蝶=畏れの演出
怪我人(=タタラ場の甲六と石火矢衆)を連れ、アシタカはシシ神の森を抜けることになります。(川が渡れず迂回する)
途中、休憩に寄った「シシ神の池」で、アシタカはサンと山犬の足跡、そして “何かの足跡(蹄が3つ)“ を見つけます(=シシ神の足跡)。
このとき、足跡に蝶が集まっていますが、私はこれを「畏れ」の表現と考えています。
西洋や近代日本において「蝶」は「変化・変身」の有名なメタファーです。
(参照:『タイタニック』ローズの蝶の髪飾りの暗喩)
しかし、「蝶」を読み込んだ和歌は数えるほどしかありません。
(『万葉集』にも選ばれていない)
これは当時の人々が「蝶」をむしろ不吉の象徴として捉えていたためです。
(蝶と蛾の区別がなく、「美しいもの」として詠まなかったという説もあります)
中世においての葬儀は、火葬よりも風葬(土葬)が一般的でした。
遺体に鳥や獣が集まるのは想像がつきますが、実は蝶にも遺体に群がる習性があります。
【物語の前半】でも描かれていたように、この時代は争い(殺し合い→遺体の放置)が日常茶飯事でした。
そんな日常の中で、蝶が遺体に群がる光景は決して珍しくなかったはずです。
このことを踏まえて【足跡のシーン】を “当時の日本人の目” で見ると、シシ神の足跡に集まる蝶は「死(の気配)※」に惹かれて集まっていると解釈することができます。
※シシ神が踏むと草木が旺盛して枯れる= “死の跡”、という解釈です。
「畏れの表現」と見出しに書きましたが、日本語の「オソレ」はいろいろな意味を含む言葉です。
・【恐れ】こわがる気持ち。恐怖。不安。
・【畏れ】敬い、かしこまる気持ち。畏怖(いふ)・畏敬(いけい)の念。
・【虞】よくないことが起こるかもしれないという心配。懸念。
(引用:畏れ(おそれ)の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書)
足跡に集まる不思議な蝶。
当時の感覚をもとに考えていくと、ここには神に対する「畏怖」のニュアンスを付け加える【演出】があるように思えます。
(そしてアシタカは体が軽くなり、甲六は骨折が直ったような錯覚を起こす)
(参考:チョウ – Wikipedia)
【呪いの原因判明】アシタカの葛藤と本音|エボシの過去
タタラ場に着いたその日の夜。
通夜の席で、アシタカは男たちから「エボシの武勇伝」を聞かされます。
これがすなわち「名護の神がタタリ神化した理由」=【呪いの原因】です。
(名護の神をエボシの石火矢が殺し、名護の神は恨みを募らせた)
エボシに対して怒りを覚えるアシタカですが、エボシは飄々と「秘密の庭」へ案内します。
そこでアシタカは、彼女が病人を匿っていることを知ります。
ここで描かれるのがアシタカの【葛藤】です。
確かにエボシは森を侵してタタラ場を建設し、製鉄稼業のために木を伐っています。
しかし、それは「エボシが守っている人々(売られた女、業病の者)」のための行動です。
この長のセリフは、アシタカが口にしない本音です。
村を守ったにもかかわらず、アシタカは呪われた上、村を追放されました。
その恨みと怒りを必死でこらえているのに、目の前では争い(里の侍、おいはぎ、タタラ場と森)が横行している。
そのアシタカの我慢を見抜いているからこそ、エボシは「曇りのない眼で見定める」という彼の言葉に高笑いを返します。
そして、“ならば現実を見せてやる” と言わんばかりに秘密の庭へ案内する。
作中、はっきりとは語られませんが、エボシが「売られた女を見るとみんな引き取っちまう(タタラ場の男のセリフ)」のは、エボシ自身が「売られた女」だからと想像できます。
世の中の理不尽=呪い(差別)をすでに経験済だからこそ、エボシはアシタカの怒りを前にしても飄々としていられます。
エボシには、神も仏もいません。
だからこそ、神殺しを恐れない。
“呪われた身” 同士の【衝突】に、『もののけ姫』のドラマがあります。
エボシ vs サン vs アシタカ|製鉄 vs 自然 vs 犠牲者(呪い)
エボシの「秘密の庭」を出たアシタカは、その足で女たちの働く「大屋根(巨大なふいごのある製鉄所)」へ向かいます。
アシタカはそこで、女たちにとってのタタラ場がかけがえのない居場所であることを知ります。
エボシのタタラ場が森を侵したことが原因
・呪いのためにアシタカは村(居場所)を失った。
↑
【アシタカの葛藤】
エボシのタタラ場は迫害された人々の居場所でもある
・その「居場所」をエボシは守ってもいる。
・呪いのために迫害されたアシタカには他人事に思えない。
【エボシの説得】に失敗したアシタカは、次に【森(サン)の説得】を検討します。
(「明日行っちゃうの~?」という女の声に「会わなくてはならない者がいるんです」と答える)
サンがタタラ場を襲撃するのはその時です。
この時のサンの無謀な戦い方は、生きたいアシタカにしてみれば「命を粗末にする行為」です。
それを弄ぶようにエボシも刀を抜き、サンの戦いは見世物のような状況に陥ります。
ここでとうとうアシタカの怒りが噴出します。
“触手(蛇)” として誰の目に見える形となった「呪い」に、エボシ(神も仏もいない人)以外の人々は恐れおののきます。
(サンまで恐れるのは、彼女は神を信じている=シシ神の存在を知っているため)
エボシ「さかしらにわずかな不運を見せびらかすな!」
↑
アシタカの怒り(=死にたくない)とエボシの怒り(=不幸なのはお前だけじゃない)が真っ向から衝突
折り合いの付かないまま、アシタカはエボシとサンの両者を気絶させ、ひとまずその場を収めます。
しかしこの直後、アシタカは石火矢(山犬に夫を殺された女)に撃たれてしまいます。
サンの葛藤|人間にも山犬にもなりきれない
重傷を負いながらも、アシタカはタタラ場を出て行こうとします。
牛飼いの旦那と石火矢集はそんなアシタカを心配して止めようとします。
(牛飼いも石火矢集も、どちらも一人ずつアシタカが川から助けている=【伏線】)
それでもアシタカはタタラ場を後にしますが、次第に朦朧とし、山犬兄弟に殺されかけます。
これを止めるのが意識を取り戻したサンです。
アシタカ「そなたは美しい……」
・「そなたを死なせたくなかった」、「生きろ」と自分が生きられないからこそ、サンに告げる
アシタカの「予想外の言葉」に動揺するサンですが、そこへ猩々(ショウジョウ)が投石で割り込みます。
ここで描かれるのが、サンの【葛藤】です。
猩々はサンに対して、「その人間(アシタカ)を寄越せ」と要求し、更にはシシ神への不審まで露わにします。
なぜなら、シシ神は戦わない上、森側の勢力(名護の神)も助けなかったからです。
【森の敵】であるはずの人間(サン)を、シシ神に次ぐ力を持つ山犬(モロ)が匿っている。
そのサン(人間)が、今度は人間(アシタカ)を助けようとしている。
この言葉(嫉妬)にサンは激しく傷つきます。
なぜなら「人間であること」こそが、サンにとっての「呪い」だからです。
・森で山犬として育ったのに、姿は人間(=【敵】と同じ姿)
アシタカの旅立ち|「穢れ」の追放で先述したように、「人が相手を仲間と認識する」には「同じ姿をしている」という【大前提】があります。
この【大前提】を “この時点のサン”※ には解決する術がありません。
※【サンの解決】については【第二幕】の最後で後述します。
生き返るアシタカ|”誓約(うけい)” → 助かるが、呪いは解けない
サンはアシタカを「シシ神の池」の島へ寝かせます。
そしてアシタカは “シシ神の奇跡” によって息を吹き返しますが、シシ神は傷は治しても、呪いを消してはくれませんでした。
絶望したアシタカは、涙を流します。
しかし、そんなアシタカを見てもサンはきょとんとしています。
ここには日本神話(『古事記』や『日本書紀』)に登場する “誓約(うけい)” が関係しています。
①姉・アマテラスを弟:スサノオが訪ねる(ただ会いに来ただけ)
②アマテラスは、スサノオが攻めて来たと思い込む(スサノオはそのくらい凶暴)
③「会いに来ただけ」か「攻めに来た」かを “誓約=占い” によって決めることにする
↑互いの宝を交換して噛み砕き、そこから男神女神どちらが生まれるかで占った
④結果、男神を生んだスサノオが勝つ(疑いが晴れる)
簡単に言うと、“誓約” とは “賭け” です。
あらかじめ結果を用意しておいて、生じた結果によって物事の真偽・善悪を決めます。
サンは、アシタカを助けるために「シシ神の池」へ運んだわけではありません。
あくまでその生死を神(シシ神)に預けただけです。
このセリフには、サンがどれだけシシ神を信じているか(大切にしているか)が表れています。
※他にも有名な “誓約” として、「コノハナノサクヤビメの神話(妊娠の真偽)」があります。
『君たちはどう生きるか』の「【備考】もうひとつの記紀神話|「火」の描写が多用される理由」で解説していますので、ご興味おありの方はこちらもご参照下さい。
シシ神の力|「生」と「死」の描写
「シシ神の池」へ運ばれたアシタカは、次の行程を経て蘇生します
②サンがアシタカの頭上に刈り取った若木の梢(榊)を立てる
③風が巻き起こり、シシ神が夜の姿「デイタラボッチ」から昼の姿「金色の鹿」に戻る(つまり、このとき時刻は明け方)
④シシ神の踏んだ大地は草が旺盛し、たちまち枯れ果てる(生死の【描写】)
⑤サンの立てた若木も枯れ落ちる(命を吸い取る【描写】)
⑥シシ神が傷を治す(命を与える【描写】)
⑦何日も眠り続けた(=サン談)のちに、アシタカは目を覚ます
シシ神が「生」と「死」、どちらの力も併せ持っていることが “植物” と “人間(アシタカ)“ を通して描かれます。
「シシ神の池」の島|磐座+大樹
「シシ神の池」の島の奥には、“大きな石” と “大樹” が描かれています。
これは “磐座(いわくら)” と “神木(しんぼく)” です。
・磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。(引用:磐座 – Wikipedia)
・神が宿るとされる石。原始信仰では基本的には自然崇拝を行っており,神は山・樹木・石などに宿ると考えられた。このうち神が降臨した石(岩)が神聖視され,信仰の対象となった。(引用:磐座(いわくら)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp))
・神が依りつくとして神聖視される樹木。
・古くから,神は何か物に依りついて具現化すると考えられていた (→依代 ) 。そこで神木を神の表徴とみなしたり,樹木に神霊が宿ると考え,畏怖し,神聖視してきた。(引用:神木(しんぼく)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp))
“磐座(いわくら)” も “神木(しんぼく)” も、どちらも「神が宿る」とされる【アイテム】です。
「シシ神の池」におけるこの2つは、神社でいうと「ご神体」、お寺でいうと「本尊」に当たります。
(神社やお寺ができる前の、日本の原始的な祭祀のあり方です)
【参考文献】
サンの「榊立て」=「鳥総立て」との類似
アシタカを島に寝かせたサンは、頭上に「若木(切り取った梢。形状からして榊の枝)」を立てます。
「榊(サカキ)」は “ツバキ科の植物” のことですが、“常緑樹の総称” でもあります。
昔の人は “常緑樹(冬も緑の葉を落とさない木)“ に、「永遠の命」を連想しました。
このため、神事に用いられるようになります。
しかし、サンが榊を立てるのには、もう一つ理由があるのではないかと個人的には想像しています。
「鳥総立て」|伐倒の作法
昔の人(特に山で木を伐って暮らしていた人)は、山に山神を想定し、そこに生える木々を「山神の所有物」として大切に扱っていました。
彼らが伐倒(木を切り倒すこと)後の作法として行っていたのが、「鳥総立て(とぶさたて)」です。
木のこずえや、枝葉の茂った先の部分。昔、木を切ったあとに、山神を祭るためにその株などにこれを立てた。(引用:鳥総(とぶさ)とは? 意味・使い方をわかりやすく解説 – goo国語辞書)
昔の山人は、伐倒後の切り株に「木霊(こだま)」が宿っていると考えていました。
※これが『もののけ姫』のコダマの由来だと私は考えています。(だからコダマは森の木々に住んでいる。→アシタカ「お前たちの母親か。立派な木だ」)
このため、切り株に梢を差し立てて、再び大樹に育つことを祈願しました。
「伐られた木の株≒撃たれたアシタカ」に「鳥総」を立てる。
そんなふうに考えてみるのもおもしろいなと思います。
(参考文献:エンタプライズ『杣と木地屋―木に生きる山人のくらし (シリーズ山と民俗)』山村民俗の会)
シシ神の夜の姿「ディダラボッチ」|昼と夜の意味
アシタカが「シシ神の池」に寝かされているのと同じ頃(=夜明け前)、ジコ坊は狩人(=西国一の狩人)を伴い、デイタラボッチ(=シシ神)を偵察しています。(←天朝さまの命令「シシ神殺し」の準備)
※狩人は「シシ神さまを見ると目が潰れる」と怯えている。(「見る」行為についてはアシタカの旅立ち|「穢れ」の追放をご参照下さい)
□ ディダラボッチ…日本各地に伝承がある巨人の妖怪。その地の山や湖ができた原因として語られることが多い。(参照:だいだらぼっちとは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp))
ジコ坊の口から、シシ神には「昼の姿」と「夜の姿」があるという【設定】が明かされます。
なぜ、「昼」と「夜」とで姿が変わるかというと、
昔の人にとっての「昼」と「夜」は、現代の人とは異なる感覚の「時間」だったからです。
太陽が出ている明るい時間 = “人” の時間
では「夜」は「誰の時間」だったかというと、ここでも鬼(天狗や幽霊)が登場します。
太陽の出ていない暗い時間は = “異界のもの” の時間
↑ “神仏” の時間(鬼などの “怖い神” も含まれる)
このため、【人の視点】から描写されるシシ神は、「昼」は鹿(動物)、「夜」はディダラボッチ(化け物)の姿をとります。
作品【冒頭】、呪いを受けたアシタカは、夜のうちからエミシの村を旅立ちます。
(参照:アシタカの旅立ち|「穢れ」の追放)
つまり、魔物の活動する「夜」に出て行かされる。
ここには、それだけ “急ぎの出立(穢れ)” であったことと、
“恐怖の対象(呪い)” になってしまったことの両方の意味が込められているように思います。
ちなみに、「昼」と「夜」の間の時間=「黄昏時」は「人と神仏(魔物)の狭間の時間」とされていました。
このため「黄昏時(たそがれどき)」は、「誰そ彼時(たそかれどき)」=「向こうから来るのが誰かわからない時」と表現されていました。
【参考文献】時間の古代史
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