(使用写真:映画『LAMB/ラム』オフィシャルサイト (klockworx-v.com))
こんにちは、ユリイカです。
今回は、Amazonプライムでも配信が始まり、話題となっているA24配給(『ミッドサマー』など)の北欧ホラー『LAMB』についてお話します。
ぜひあわせてご覧ください。
不気味なのに、どこか神聖な『LAMB』を読み解くヒント
『LAMB』のストーリーはこちらです。
あらすじ
(LAMB ラム : 作品情報 – 映画.com (eiga.com) より引用)
つまり、「何か」を拾ったことで、災厄に見舞われる夫婦のストーリーです。
大前提として、
※マリアの左胸=心臓(向かって右)にイエスを抱いたこの構図は、ふたりの間の情愛を最もよく示す構図といわれています。(参考:マリア像 – Wikipedia)
まるで聖書の一節のように、全三章の “章立て” 演出で展開します。
暗喩①:キリスト教における「羊」と、鏡のシーンに込められた心情
『新約聖書』には、次のような記述があります。
↑ここから派生して、
・「羊飼い」…信者の保護を務めとする〈聖職者〉
・「大牧者」…「羊飼い=〈聖職者〉」に司牧の任を授ける〈キリスト(=善き羊飼い)〉
(参考:善き羊飼いとは – コトバンク (kotobank.jp))
このような比喩が成立しました。
これを本作に当てはめると、
・「羊飼い」→イングヴァルとマリア
このような図式となり、彼らの上に「大牧者」、つまり〈神・キリスト〉がいるという配置になります。
しかし、本作においてイングヴァルとマリアは「羊飼い」であると同時に「農民」でもあります。
この理由を次にお話します。
【補足】「鏡」の演出
本作では「鏡(自分が “何者か” を見せる・確かめるアイテム)」の演出が多用されます。
中でも印象的なのは、イングヴァルのシーン。
①水桶(水鏡)を覗き込む(水面にインクヴァルの顔が映っている)
↓
②白羊と黒羊が水を飲みに来る(水面が揺らいで顔が見えなくなる)
↓
③白羊と黒羊がいなくなる(再び水面に顔が映る)
①水桶(水鏡)を覗き込む
・自分はこれまで通りに生きている(一応、生活はしている)
・けれど、何かが欠けている(喪失感)
②→③水を飲みに来た白羊と黒羊と顔が重なる
・悪いことは何もしていないはずなのに、悪いこと(子供の死)が起きた。それとも、何か悪いことをしたから悪いこと(罰)が起きたのか。
(自分は善き信者(白い羊)のはずなのに。ひょっとすると悪い信者(黒い羊)だったのだろうか)
※「黒」の色の意味については後述します。
混沌の原因:「ゲルマン人」という設定・「トラクター」が象徴するもの
先述したように、本作は “章立て” 演出で展開します。
その際、「KAFLI」というテロップが挟まれますが、これは「chapter(チャプター)」を意味する「古ノルド語」です。
インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派北ゲルマン語群に属する言語である。古北欧語とも。
(引用:古ノルド語 – Wikipedia)(参考:Old Norse – Wikipedia)
簡単に言うと、本作の舞台であるアイスランドの「ゲルマン人由来の言語」です。
そして、この「ゲルマン人設定」が本作を混沌とさせている原因となっています。
・インド・ヨーロッパ語族のうちゲルマン語派に属する言語を話す民族の総称
(引用:ゲルマン人とは – コトバンク (kotobank.jp))
・ゲルマン人は定着農耕と牧畜を営んでいた
(引用:ゲルマン人 – Wikipedia)
ゲルマン人はもともと「農耕民族」でした。
(その背景の暗喩として、「トラクター」のシーンが多用されているのだと私は考えています)
「農耕民族」とは “自然(天候)に左右される暮らし” をしている人々のことです。
このため、多くの「農耕民族」はアニミズム(偶像崇拝)の宗教観を持っています。
わかりやすく日本人で例えると、神社の御神木に手を合わせたり、富士山を拝んだりする習慣のことです。
そして、「ゲルマン人」と言えば「大移動」。
ひとことで言うと、これは「大勢のゲルマン人がローマ帝国領内の各地に定住(4~6世紀)」した出来事を指します。(参考:民族移動時代 – Wikipedia)
この「大移動」をする中で、
もともとゲルマン人の持っていた「アニミズム」に、「ギリシャ神話」や「ケルト神話」、そして本作のテーマとなっている「キリスト教」等さまざまな宗教観が結びつき、独自の宗教観が生まれます。
これもわかりやすく日本人で例えると、
↑
インド(天竺)・中国(唐)を経て「仏教」伝来 ⇒ 神仏習合※
※「天照大御神=大日如来」、「大国主神=大黒天」のように「日本神=外来神」と合体させる考え方です。この結果、「山(自然物)に手を合わせる信仰」と「寺・神社・大仏(建造物)に手を合わせる信仰」が今日も共存しています。(参考:本地垂迹 – Wikipedia)
「ゲルマン人のキリスト教」は、カトリックやプロテスタントとは異なる「アリウス派」と呼ばれるものになりました。
簡単に言うと、アニミズムが根底にあるために「 “ギリシャ神話的な多神教スタイル” のキリスト教」が出来上がったということです。
(本来、キリスト教はイエス・キリストのみを崇める一神教です)
暗喩②:「犬」と「猫」
ここまでの話の補足として、本作における「犬」と「猫」についても下に列挙しておきます。
「犬」
・「牧羊犬」=羊たちを守る犬
↑羊飼いであるイングヴァルとマリアにとっては、ペット以上の存在
シーン①…アダに付きまとう母羊に吠える
シーン②…黒い羊に向かっていく(→そして殺される)
・ケルト神話(北欧神話)、エジプト神話では神聖視される
↑このため、キリスト教では「悪魔・魔女」として敵視
(↑結果、“魔女のペット” として現代でも演出に多用される)
シーン①…マリアに懐いている(“なぜか” イングヴァルとのシーンがない。※後述します)
シーン②…牧羊犬の死の直後、むくりと草原で身を起こす(独特の不気味さ)
「登場人物」の “役当て”
本作「LAMB」に設定されているのは、「一般的なキリスト教」の世界観ではありません。
あくまでゲルマン人=「アリウス派視点で捉えたキリスト教」の世界観です。
これをもとに、ここでは本作の考察ポイントとなる
②ラストで1度だけ登場する「黒い羊」
について解説します。
⓪はじめに|夫・イングヴァル = “聖書のマリアの夫”・ヨセフ
ペートゥル解説のため、はじめに主人公・マリアの夫として登場するイングヴァルについてお話します。
言うまでもなく、イングヴァルは “聖書のマリアの夫”・ヨセフのメタファーです。
ヨセフのアトリビュート※は「鉋(かんな)」。
このため作中では、大工仕事をするイングァルのシーンも用意されています。
※「アトリビュート」=絵画や彫刻などで、神あるいは人物の役目・資格などを表すシンボル(参考:アトリビュートとは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp))
また、ヨセフは「イエスの養父」としても知られています。
(聖書における「妻・マリア」は処女懐胎をするため “養父”)
アダが “実の子ではない” という点でも符合する設定となっています。
(参考:ナザレのヨセフ – Wikipedia)
①イングヴァルの弟・ペートゥル|”ヨセフの弟” なのに “厄介者”
イングヴァル=「ヨセフ」であるなら、
当然、その弟・ペートゥルは「ヨセフの同母弟・ベニヤミン」ということになります。
(父・ヤコブ+母・ラケル → 兄・ヨセフ / 弟・ベニヤミン)
しかし、先にお話ししたように、
「ゲルマン人のキリスト教」=「アニミズム」+「キリスト教」です。
↑ここには「ギリシャ神話」の神々も混在しています。
ペートゥルは、いかにも厄介者の登場(車から放り出される)をします。
衣裳は黒い皮のジャケット、のちにミュージシャンであったことも明らかになります。
西洋において「黒」が〈邪悪〉や〈死〉の象徴であること、義姉であるマリアを誘惑することと合わせても、
どうも“ヨセフ” の弟らしいキャラクター像ではありません。
結論からお話しすると、
私はこのペートゥルを「ギリシャ神話のサテュロス」だと想定しています。
その理由、キャラクター像の違和感については、次の「黒い羊」の解説と合わせて後述します。
② “黒い羊” の理由|本来なら “黒い山羊” が妥当
先述したように、キリスト教において「羊」は〈信者〉の象徴です。
しかし、ラストでイングヴァルを銃殺し、アダを連れていく何かは、どう見ても〈邪悪〉な姿をしています。
はじめ、私はこの何かを「黒い羊」でなく、「黒い山羊」だと思わず勘違いしました。
なぜなら、「山羊」には次の暗喩がお約束だからです。
・〈悪魔〉の象徴(「善き羊飼い(キリスト)」との対比)
一神教は基本的に、他宗教の神を認めません。
極端に言うと、キリスト教以外の宗教は何であれ「邪教」ということになります。
(キリスト教を広めるためのイメージ戦略。先述した「猫」もこれに該当します)
※山羊は山岳民族にとって代表的な家畜(恵み・繁殖の象徴)
↑
キリスト教にとっては〈邪神〉
↑
〈悪魔〉の色「黒」+「山羊」⇒「黒い山羊(黒+山羊)」
それぞれの宗教の〈神〉と〈邪神〉のイメージが交じり合い、あいだを取った結果、
本作の “ゲルマン人の世界観” では、“邪悪な何か” =「黒い羊」という表現になったと考えられます。