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【ネタバレ解説】映画LAMB(ラム)を読み解くヒント 父親の正体とラストの意味

映画

【独自考察】ペートゥル ≒「黒い羊」

ここまでお話ししてきたように、「ゲルマン人のキリスト教」は独特です。
本来の「キリスト教」や「ギリシャ神話」が交じり合った結果、〈善〉と〈悪〉も混ざり合い〈矛盾〉をはらんだ設定となっています。
その最たるものが「弟・ペートゥルだと私は考えています。

「キリスト教」と「ギリシャ神話」を “足して2で割った” ようなペートゥル

キリスト教における「黒い山羊=〈悪魔〉」「バフォメット」と呼ばれます。

バフォメット(キリスト教)
キリスト教徒が想像する異教の神山羊の頭を持った悪魔
・その姿は黒山羊の頭と黒い翼で知られ、魔女たちの崇拝対象となった。
※有名なディズニーヴィラン・マレフィセントの角が「山羊」なのも、この「バフォメット」のイメージから来ていると思われます。
(引用・参考:バフォメット – Wikipedia

一方、ギリシャ神話における「山羊=〈神〉」「パーン」と呼ばれます。

パーン(ギリシャ神話)
羊飼いと羊の群れを監視する神(牧神、牧羊神)
・その姿は、四足獣のような臀部と脚部、山羊のような角をもつ。
・山羊は性的な多産のシンボル。ギリシア人はパーンがその魅力により、処女や羊飼いを誘惑するものと信じていた
(参考:パーン (ギリシア神話) – Wikipedia
勘の鋭い方にはもうおわかりかと思いますが、
弟・ペートゥル外見(黒い皮のジャケット行動(マリアを誘惑するは、上記2神と符合します。
実は、この2神のあいだを取ったような存在ギリシャ神話に登場するのです。
それが先述した「サテュロス」です。

ペートゥル=ギリシャ神話「サテュロス」

先述したように、私はペートゥルギリシャ神話の「サテュロス」だと考えています。
※一説には「サテュロス」は「パーン」の息子(近縁)と言われています。

サテュロス(ギリシャ神話)
・悪戯好きだが、小心者。破壊的で危険であり、また恥ずかしがりやで臆病
音楽に乗って、踊ったり口説いたりした。
本能的にあらゆる肉体的快楽をむさぼろうとする
※近代ギリシアの一部地域では、カリカンジャロスという妖怪が、いにしえのサテュロスに似ているとされる。彼等は山羊の耳をもち、毛で覆われ、女好き踊りを好む
(引用・参考:サテュロス – Wikipediaカリカンジャロス – Wikipedia
作中、ペートゥルは、マリア(=羊飼い)を誘惑します。
一方のマリアも、これが初めてではない慣れた様子(すでに不倫関係にあるか、あったを見せます。
ここまでの要点をまとめると、
【ペートゥルというキャラクター】
外見(黒い皮のジャケット)→キリスト教「バフォメット」的
マリアを誘惑する→ギリシャ神話「パーン」的
誘惑される(させる)マリア→キリスト教「魔女」的
※これが「猫」がマリアに懐いていると先に特筆した理由です。
元ミュージシャン→ギリシャ神話「サテュロス(カリカンジャロス)」的
上記のように、ペートゥルの各所に「キリスト教」と「ギリシャ神話」の〈神・邪神〉の特徴が見つかります。
本作の “何か”=「黒い羊」、いわば「ゲルマン宗教ver.のバフォメット」です。
とすると、「サテュロス」的なペートゥルは、イングヴァルの弟である一方で、「黒い羊」にも近しいキャラクターであるとも言えます。
また、そんなペートゥルとの関係を匂わすことで、マリアが決して善人〈善き信者〉でないことも観客に伝わる設定となっています。

本作の “出来事” |「因果応報」というより「罪と罰」

本作のストーリーをおおまかにまとめると、

第一章(KAFLI Ⅰ)…アダ誕生~マリアによる母羊銃殺
第二章(KAFLI Ⅱ)…ペートゥル来訪~アダ銃殺未遂
第三章(KAFLI Ⅲ)…死んだ娘(情報開示)~結末:イングヴァル銃殺

どの章でも「銃殺」がストーリーを動かします
ここに焦点を置いて、キリスト教観点から考察していきます。
(本作は非常に曖昧な点の多い作品です。ここからの考察は推測も含みますことをご承知ください)

「因果応報」と「罪と罰」のニュアンスの違い

「因果応報」と「罪と罰」は、似ているようで少しニュアンスが異なります

まず、「因果応報」そもそも仏教用語です。
「輪廻転生=前世があって今世があり、今世の行いによって来世が決まる」という世界観のニュアンスを含む言葉です

「因果応報」
・仏教で、前世やその人の過去の行いが原因で、さまざまの結果を報いとして受けること。
(引用:因果応報(いんがおうほう)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)

次に「罪と罰」ですが、こちらは有名な文豪ドストエフスキー『罪と罰』からもわかるように、キリスト教と関係の深い言葉です。
『罪と罰』のテーマは簡単に言うと、「人は罪を自覚してこそ成長する」ということです。

上記の区別・意味を踏まえると、
「罪と罰」という表現・ニュアンスこそ、本作『LAMB』にふさわしく、作品理解のヒントとなります。

マリアの罪「母羊銃殺」

アダは、黒い羊〈神〉と羊〈信者〉との間に誕生した獣人です。
それをマリア “亡くした娘の穴埋め” のために母羊から取り上げます
そしてマリアは、夫・イングヴァルの目を盗んで母羊を銃殺します。
(これをイングヴァルの弟・ペートゥルが目撃する)

本作のテーマを「罪と罰」とするなら、
この銃殺=マリアの犯した「罪」こそが、ラストでイングヴァルが銃殺される理由です。

ペートゥルの「アダ銃殺未遂」の理由

北欧の夏には、白夜があります。
そのため、マリアによる銃殺も、ペートゥルによる銃殺未遂も、時間帯は判然としませんが、
いずれもアダの保護者(イングヴァル、もしくは夫婦両方)が眠っている間に起きることから、深夜であることが推測できます。

しかし、ペートゥルはせっかくアダ銃殺のチャンスを得たにもかかわらず
次のシーン(目覚めたマリアがアダを捜す)では、アダを抱えて仲良く眠っています
ようやく幸せを手にした兄夫婦、そして、愛らしいアダに情を絆されたとも考えられなくはありませんが、それにしてはあまりに唐突な心変わりのように思えます。

私はここに、「黒い羊」の影響(神の介在)を推測します
先述したように、ペートゥルというキャラクターには、「黒い羊」のような面が散見されます
白夜=普通ではない〈光〉の時期に現れ、去っていくという点でも、どこか来訪神的な含みを感じます)

第三章(KAFLI Ⅲ)で、マリアに追い出されるようにしてペートゥルは去っていきますが、
そうなるきっかけとなったのは、

ペートゥル「(誘惑を拒むマリアに)母親を殺したこと、あの子は知っているのか

このたった一言です。
単にマリアを脅しただけのようにも見えますが、ペートゥル ≒「黒い羊」と想定すると、
〈神〉からの忠告(マリアの罪を見抜いている)と取ることもでき、脅しよりもずっと凄味が増します

【まとめ】
ペートゥルには「黒い羊(≒ バフォメット)的な面が散見される
「黒い羊」からの忠告とも取れるようなセリフを吐く

つまり、ペートゥル ≒「黒い羊=アダの父親」

このため、ペートゥルにはアダ(「黒い羊」にとっては実の息子)が殺せなかったと私は推測します。

また、イングヴァルが “山” で銃殺されることになった原因も、よくよく考えるとペートゥルにあります。
冒頭から「トラクター」の調子がおかしいという伏線が示されていましたが、
実際に「トラクター」の故障が起きた時、乗っていたのはペートゥルとアダです。
つまり、ペートゥルが故障させ、そのためにイングヴァル “山” へ出かけることになるのです。
この筋書きの裏にも、私は「黒い羊(神)」の介在があるように思えてなりません。

マリアの「罪」によって、イングヴァルは殺された

母羊を銃殺したのはマリアです。
しかし、「黒い羊」に銃殺されるのはイングヴァルであり、これこそが私が本作のテーマを「罪と罰」だと考える根拠となっています。

つまり、“イングヴァルが銃殺された” のではなく、”マリアが夫を奪われた” ことに意味(作中の “神意” であり、監督の意図があります

【マリアの罪】
“母羊の銃殺” =「黒い羊」「妻」を殺した”
この結果、
【マリアの罰】
“イングヴァル銃殺” =「黒い羊」「夫」を殺される”

本作のラストはバッドエンドです。
しかし、ここで先述したドストエフスキーの『罪と罰』を踏まえると、ラストの見え方が変化します

『罪と罰』のテーマは、人は罪を自覚してこそ成長する
今回のことで、マリア「罪:母親から子供を奪う(そのために母親を殺す)」→「罰:夫を奪われる」という一連の流れを自覚(理解)します。

人はつらい目にあったとき、無意識のうちにその原因を見つけようと(“何か” のせいにしようと)します。(悲しみの5段階。参考:エリザベス・キューブラー=ロス – Wikipedia
冒頭、子供を亡くしたイングヴァルの心情 “水桶に映る白羊と黒羊” で表現されたように、
マリアにも当然、子供を失った「悲しみ」がありました

ここからは私の推測ですが、
マリアはその「悲しみ(怒り)」を「神」に向けたのではないでしょうか。

母親から子供を奪う無慈悲な〈神〉がいる
それなら、〈神〉から子供を奪う母親がいてもいいと考えた。
※アダが「〈神〉の子供」であることはその外見からひと目でわかります。

この結果、マリアは夫・イングヴァルを失います。
しかし、これによってマリアは「神への逆恨み」を自覚します。
(↑子供を失ったことは「天罰」でも何でもなく「事故(運命)」だった。作中、イングヴァルが川を捜しに行ったり「アダ!」と叫びながら湿原を駆ける回想シーンがあることから、娘・アダは水場での事故死だったと推測できます

これをマリアの「成長」とするなら、このラストは必ずしもバッドエンドではありません
最後にこのことについてお話します。

【ラストシーン】の解釈

本作の【ラストシーン】は以下のように意味深です。

霧の中、マリアがひとり立ち尽くしている。
何かを「感じ(聞き)」「下」を見るようにしてから、「悟った」ように「天」を仰ぐ
※このときマリアは、“キリスト教におけるマリア”のアトリビュート「青い服(コート)」を着ています。
長い割に「答え」をくれない曖昧なシーンですが、
これも「聖書(キリスト神話)」を踏まえると、次のように読み解けます。

“マリア” の「懐妊」=”聖母マリア” の結末

【ラストシーン】を読み解くヒントは、『福音書(イエスの言葉とおこないを記した文書)』にあります。

『福音書』より「十字架上のキリストの最後の7つの言葉
……
【第3の言葉】
女よ、見なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」
(ヨハネの福音書19章26節-27節)
マリア弟子・ヨハネに言った言葉で、ヨハネにマリアを支えることを依頼したもの。
(簡単に言うと、十字架に磔となったイエスがマリアに息子の存在を告げている)
(引用・参考:十字架上のキリストの最後の7つの言葉 – Wikipedia

観客に提示される情報が、曖昧で難解な『LAMB』ですが、
キリスト教を知る観客にとっては、マリアの再びの懐妊を想像させるのに十分な【ラストシーン】になっています。

結局、何が描かれた物語なのか

本作の序盤では、マリアはひとりでベッドで眠っていました
それがアダを得たのをきっかけに再びイングヴァルと眠るようになります
(そして、わざわざ性交渉が描かれる。これはマリア懐妊のための伏線というよりも、子供を失って以来、没交渉だったことを示す演出です)

アダを得た直後から、マリアは活き活きと生活し始めます。
そんなマリアの “母親としての姿” に、”娘のいた頃の生活” を重ね、時折涙しながらも、
イングヴァルも “父親としての姿” を取り戻していきます

途中、マリアが「罪」を犯したために「罰」へとストーリーは舵を切りますが、
本作で描かれたのは、夫婦の「再生(キリスト教的に言うなら “復活”)」の物語なのではないでしょうか。

【注意】
今さらになりますが、私自身は典型的な日本人で、キリスト教に全く詳しくありません。
趣味で学んできた「日本の民俗学(宗教観)」を応用し、考察・解説しただけに過ぎません。
特定宗教について何かを断言したり、非難したり、推奨する意図は全くありませんことをご承知置き下さい。

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【参考サイト一覧】

映画『LAMB/ラム』オフィシャルサイト (klockworx-v.com)